Improvisational Days

さすらいの英語講師Joeによる気まぐれ日記。本業の話のほか、音楽の話もあり。政治・宗教の話はなし。

「ありがとう」と、リスペクトを込めて

 コンビニやスーパー、飲食店などにおいて、客が店員に「ありがとう」や「ごちそうさま」を言うのは、正しいことなのだろうか。それとも、間違っているのだろうか。日本人としての統一的な正解はないだろうが、どちらかというと、あまりそういうことを言うのは憚られる、と考える向きが多い印象だ。

 だが、それでいいのだろうか。客と店員は、サービスと対価を交換するだけの冷たい関係なのだろうか。

 

 昨晩、仕事帰りに行きつけの定食屋で食事したときのこと。いつものメニューを注文し、相変わらずの美味に舌鼓を打つ。だしのよく効いた味噌汁を飲み干したところでさすがに喉が渇き、手を伸ばしかけたところで、お茶がないことに気づく。本来は料理よりも先にテーブルに置かれるのだが、店員もたまに忘れてしまうことがあるようだ。

 

 そばにいた店員にお茶を持ってきてくれるよう頼むと、忘れてしまった落ち度から、大急ぎで申し訳なさそうに出してくれた。そのとき私は、「ありがとうございます」と礼を言った。そんなこと、礼を言うに値することではないと思われるかもしれないが、それでも言わずにはいられないのである。その理由を改めて考えてみた。

 

 私が「ありがとう」と言うとき、単にサービス(Service:本来の業務)に対して言っているのではない。そのサービスを生み出す過程において、店員から客への「リスペクト」が感じられたときに、その気持ちに対して言っているのである。

 

 先の場合でいえば、私が文句を言ったわけでもないのに、店員は本心から申し訳なさそうであった。それはとりもなおさず、私へのリスペクトがあったことを意味する。だから私の方も、そんな真心をもった店員に対するリスペクトを表明するために、直接言葉にして伝えているのだ。

 

 逆に言えば、スーパーであれ定食屋であれ、店員が機械のようにサービスをこなすだけならば、客としては文句はないがお礼を言うこともないだろう。こちらも機械のように、対価として要求された金額を支払うだけのことである。それはそれでよいかもしれない。

 

 だが、どのような業種であれ、これだけ多くの店がひしめき合って競争している状況でマニュアル化された接客しかできない店員というのは少ないし、いても淘汰される。チェーン店だろうがフランチャイズ店であろうが、アルバイトを含む多くの店員は、客に快適に買い物をしてもらうための努力を惜しまないし、そういった部分にやりがいを感じてもいるのだろう。実際、日本を訪れる外国人はそのような接客サービスを高く評価しているという。もしも日本にチップの習慣があったならば、きっと観光客の多くがその本質(サービスの質に応じて、客が自発的に渡す)に基づいて、気前よくはずんでくれるのではないだろうか。

 もちろん日本にはそのような習慣はない。ならばせめて、言葉のチップをはずむつもりで、感謝の気持ちを直接伝えたいと思うのは人間として自然なことではないだろうか。相手は自動販売機ではなく、生身の人間なのだから。

 だから私としては、自分の「ありがとう」や「ごちそうさま」が殊更に特別視されるのは本意ではない。むしろそれが当たり前の世の中になってくれたらどんなに良いことかとつくづく思う。「言葉のチップをはずむ」などという独自の言い方に、面映さを感じずに済むほどに。

 

 そんなことを考えながら口にしたお茶は、もう温かいものに変わっていた。もうそんな季節か、などと今更のごとく秋の深まりを感じながら、思わずその温かさを人の心のぬくもりと重ね合わせていた。