Improvisational Days

さすらいの英語講師Joeによる気まぐれ日記。本業の話のほか、音楽の話もあり。政治・宗教の話はなし。

Roughであること

 先日、同僚の数学講師と談義をしていて、互いに最も共感したことがある。それは、「Roughであることの重要さ」。一見逆説的だが、教育の現場においてroughであるとは、どういうことなのだろうか。

 

 まず、roughは「荒い」という意味をもつが、私の授業中の口調はどちらかというと荒い方である。もちろん、人格を否定する言葉など決して言わないし、むやみに怒るわけでもない。ただ、生徒が間違っていたら「違う」とはっきり言うし、「それ、さっきやったばっかだろ」と言うこともかなりある。そのときの言い方が荒いのである。というより、オブラートに包むことをしない。

 この頃の教師は特に、このような荒さを忌避し、能う限り丁寧な口調で授業をする傾向にあるようだ。おそらく、学校でも塾・予備校でもそう大差ないのではないだろうか。そのような先生からすれば、私などは無神経で乱暴な人間に見えるかもしれない。

 だが、丁寧な物言いは、時として必要以上の距離を作り出してしまう。そして、教師と生徒の間の距離があまりに遠いと、教師の言うことが正確に伝わりにくくなる。あるいは、たとえ意味はわかっても、教師が意図した緊張感や厳しさまでは伝わらないことも少なくない。それでは本末転倒なので、生徒の人格を最大限尊重した上で、あえて荒っぽい口調で教えているのである。

 

 また、roughには「粗い」という意味もあるが、これは完璧主義に陥りがちな自分を制御してくれる、特に重要な観点である。通常、教師は授業を事前にきちんと組み立て、時間の使いかたなどを計画した上で、本番に臨む。もちろんそれはそれで望ましいことなのだが、計画があまりにもきめ細かい場合、その分融通が利きづらくなる嫌いがある。それならば、軸がぶれてしまうことのないように大まかな方向性だけを決めて、あとはその時その時の教室の状況を読み取って授業の進め方を調整すればよい、というのが私の考え方である。

 別な観点で言うと、英作文や和訳問題などの模範解答もある程度「粗い」方が却って生徒のためになる。教師が実際の試験時間を大幅に超えて(というか、無視して)書いた答案は確かに完璧だが、それゆえに生徒が試験本番でそのように解答することは非現実的である。もちろん、完璧な模範解答を見せることは大切だが、皮肉なことにそれだけでは「模範」にはなっても「参考」にはならないことが多い。だからこそ、模範解答と併せて、それをギリギリまで荒くした見本も示すことで、本番での最善とは何かをわかってもらうことが重要だと私は考えている。

 

 これらのことに気づくのにかなりの年月を要したが、これこそ自分のブレークスルーのポイントだと思う。それに、このことは教育だけでなく、他の事柄にも多かれ少なかれ当てはまるだろう。言い古された表現だが、人にものを教えることは、本当に勉強になる。