Improvisational Days

さすらいの英語講師Joeによる気まぐれ日記。本業の話のほか、音楽の話もあり。政治・宗教の話はなし。

なぜ、英語を勉強するのか

職業柄、英語を学ぶ意味、それも普遍的な意味を絶えず自問している。

私自身は、英語は実用的かつ楽しいものだと思っているのだが、当然それは個人的な評価に過ぎない。楽しい、面白いといった趣味の問題は言うに及ばず、実用性でさえ人によってレベルが異なるからだ。楽しさでもなく実用性でもない、ならばどのような価値が英語学習の果てに待っているのだろう。

以前、私はこんなふうに考えていた。英語それ自体よりむしろ、英語という一定の知識体系に様々なアプローチをなすことで身につく高度な思考力が目的なのであって、英語はいわばパッケージの役割を果たしているに過ぎないと。今でもそう思っているし、そのような考え方は「英語大好き人間」に幾分ありがちな、あまりにも主観的な教え方に歯止めをかける上で、ある程度有用であるとも思う。

しかし、このような考え方は、ある重大な事実を踏まえていない。すなわち、文科省が英語学習の目的として「国際社会で活躍できる人材の育成」を掲げていることである。もちろん、文科省のお触れがすべて正しいわけではないし、誰も彼もが国際社会で働くわけでもない。だが、最善の状態を目指す上であらゆる現状を所与としなければならないことは、学問に携わる者として最低限の常識である。

そこで、この文言をシカトするのではなく、「国際社会で活躍するために必要な能力の養成」と読み替えてみたらどうだろうか。
前提として、国際社会とは往々にして、欧米の価値基準・常識に基づいている。その事実に対して既に反発を覚える人も多いだろうが、欧米の価値観が重要なのは、欧米がこの世の中を牛耳っているからだけではない。欧米の価値観が、その内容からしておよそ国際的に普遍性をもつからである。
教育というテーマからは少しそれるが、たとえば「人権」という言葉に欧米的な臭いをかぎとって、露骨に嫌悪感を顕にする人がいる。だが、人権がこの地上において普遍的に尊い価値観であることは言をまたない。このような普遍的な価値基軸の前では、地域や国の違いは意味をなさないのである。

では、国際社会で求められる普遍的な価値をもつ能力とは何か。
思うにそのうち最も重要なものの一つは、批判的思考である。日本語においては「批判=非難」という思い込みがあるせいか、なかなか正しく理解されず、浸透しない考え方である。実際、「上司のいうことを批判的に考える」などと言ったら、この国では調和を乱す存在とみなされかねない。しかしながら、批判的思考とは、「論理的・科学的・客観的に考えること」を意味するのである。上司のいうことをそのように考えることはむしろ成果を生むために必要なことであるし、上司を親・教師に変えてみれば、自立した成人になるためにも批判的思考が不可欠であることがわかる。
そのように考えると、国際社会に出る出ないにかかわらず、この能力は普遍的な価値をもつと言えるだろう。特に、あらゆる情報が溢れかえり、誰でもアクセスできる現代において、批判的思考に裏打ちされたメディア・リテラシーがいかに重要であるかは、今や疑いの余地がない。

では、そのような能力をなぜ、あえて英語によって鍛えていくのか。

確かに日本語でも批判的思考はできる。だが、そもそも日本は良きにつけ悪しきにつけ「集団>個」の国であり、論理的正当性などよりも「どちらの立場が上か」が優先的な判断基準となる(個人的に、この国で一番嫌いなところである)。つまり、日本文化は批判的思考とはそもそも相容れない。そうした文化を、日本語が多かれ少なかれ反映しているのだとすれば、特に精神的に未熟な学生が批判的思考力を身に付けるために母国語のみに依存するのはあまり現実的とは言えまい。

ところが英語の場合、背景にある文化が日本とは全く異なり、極めて論理が重視される。よく、「英語は日本語よりも論理的である」という人がいるが、おそらくそれは少しばかり違う。それぞれ論理の表し方が違うだけであって、言語構造上の論理性の優劣を論じるのはナンセンスだと思う。重要なのは、論理的・批判的思考の重要性の差は文化の違いに根ざすものだということであって、それを象徴するのがそれぞれの言語の運用場面であるということである。
たとえば大学などでSpeakingの講義を受講すると、かなりの頻度でbecauseやsoなど、論理(因果関係)を表す接続詞を使用していることに気づく。しかし、日本語で話すときは「なぜならば…」みたいな言葉はあまり使わない。むしろ、あまり使うと鬱陶しく感じられてしまうだろう(経験者談)。

殊に日本の学校の授業では、教師の言うことに「なぜ」と問いかけることよりも、「はい、わかりました」とばかりに(たとえよくわかっていなくても)素直に受け入れることの方がはるかに重視される。その結果、何かを暗記するのはやたら得意だが、正しいかどうかの判断が苦手になるという表面上の優等生が量産されたりする。あるいは、不幸にも「勉強=暗記」と思い込んでしまい、およそ勉強と呼ばれるものすべてに失望してしまう人もでてくる。
また、教える側でも「教えること=生徒を自らの信者にすること」になってしまう教師がいたりする。そういう教師の生徒は、「いかにその先生の言うとおりに答えるか」という有害無益な評価基準のもとで形ばかりの勉強をしなければならない。

そういった事態を打破するために、英語を通じて批判的思考のいろはを習うのである。becauseの大切さを知るのである。そうすれば、英語から離れた場面でも、そういう能力はしっかり残るはずだ。
それに、そのような認識のもとで授業が行われれば、This is false because…の続きを考えるのも、長文問題(3)の答えがなんでウでなくてイなのかを考えるのも、本質的に同じことだと教師も生徒も気づけるだろう。

繰り返しになるが、批判的思考や論理的思考と言われるものは国際社会で活躍する人材の専売特許であってはならない。むしろ、日本全体の成長のためのボトルネックを取り除くために必要不可欠な能力である。
「先生の言うことだから正しい」「本に書いてあることだから正しい」「辞書に書いてあることだから正しい」「新聞記事だから正しい」…目上の言うことを無批判に受け入れる姿勢に端を発する、これらの隷属的ともいうべき態度を、やはり教育の現場から少しづつ変えていくべきである。