Improvisational Days

さすらいの英語講師Joeによる気まぐれ日記。本業の話のほか、音楽の話もあり。政治・宗教の話はなし。

スピリチュアルと思考停止

 最近とみに、スピリチュアル系の話が流行っているように感じる。スピリチュアルとは、簡単に言うと「目に見えない世界」の総称のようなものだ。もちろんそれは大昔から存在するが、それが今になって一般的な認知を得つつあることは、現代科学や西欧医学の限界が人々に認識されつつあることの象徴であろうか。

 

 それはともかく、「スピリチュアル」なるものそれ自体に対しては、私は肯定も否定もしない。私とて、科学ですべてが解決できるとは思っていないし、目に見える世界がすべてなどとおごるつもりもない。ただし、科学など「目に見える」もののみがこの世のすべてを説明し得ないのと同時に、「目に見えない」ものも世界や人生の謎のすべてを解き明かしてはくれないのだ。このことは極めて当然だと思うのだが、中には、「スピリチュアル」なるものにハマりすぎて、大人としての判断力を大きく損ねた決断を下してしまう人がいるようだ。

 

 たとえば、ある自己啓発セミナーに誘われて、「無料体験ならば」と参加してみたとする。そこでは誰もが楽しげに談笑していて、あなたが入室すると満面の笑みを浮かべながら出迎える。席に着くと、所定のワークが始まり、自分のことやこの世界のことが少し見えてくる(ような気分になる)。幸せへの道が、おぼろげながらも開けてきたように感じてくる。そしてその日の無料体験が終了し、正規のコースの説明を受ける。いずれのコースも高額で、現時点での収入では、ぽんと出せるような金額ではない。それを控えめに伝えると、スタッフは言う。「お金は、後でどうにでもなるよ」と。

 

 既にお気づきだろう。この話でまずおかしいのは、無料体験をただ1回受けただけで、本来ならば人生をかけてたどり着けるかどうかという悟りに達してしまうというところだ。あまりにも出来すぎた話である。そして何より、お金の話だ。幸せになるのに多額の金が必要なのかという疑問はさておき、「お金は、後でどうにでもなるよ」とは、いかなる根拠に基づく言葉であろうか。あなたの経済状況など(通常であれば)他人が知るはずはないし、よしんば知っているとしても、どうにでもなるというのは曖昧かつ極端な物言いである。このような状況で、借金をそそのかすスタッフもいるらしいが、誰から借りてどのように返済するかなど、一々あなたのために考えているはずがない。あるいは、スタッフ自身、後でまとまったお金が入ってきたという体験をしているのかもしれない。だがそのスタッフとあなたとでは様々な条件が異なるのだから、その話が真実だとしても、それが自分にも当てはまる保証など望むべくもない。まして、金が欲しいと願うだけで金が手に入る道理などありはしない。

 

 このように書くと、そんなことは当たり前だと言われるかもしれない。しかし、その「当たり前だ」という現実的な感覚こそが、スピリチュアルな世界を探求する際に必要不可欠なのである(別にそういう世界の探求を勧めているわけではない。私もやっていない)。目の前に提示されたセミナーに30万円分の価値を見出すかどうかは個人の自由だ。だが、30万円という金額にはそれなりの重みがあり、実際の家計の状況などからその使い道の優先順位が弾き出され、それに基づいてその資金が運用されるのが普通の感覚だろう。この現実感覚がある限りにおいて、スピリチュアルな要素を人生に取り入れるのはアリだと思う。

 

 しかし、何らかの形でマインド・コントロールを受けてしまった場合はどうだろうか。単調なリズムで行われるテキストの読み合わせ、特定の言葉を何度も唱えるワーク…その繰り返しで現実感覚が麻痺し、判断の足場を失ってしまったら、30万円が3000円くらいに思えてきて(?)、即決で入会手続きをとってしまうこともありうる。そして、現実感覚を超えた(というよりは、失った)高揚感から、まるで空でも飛んでいるかのように多幸感に包まれた日々がスタートするかのような気分になるかもしれない。だが、所詮スピリチュアルも本来は一つの「人生をよりよくするためのツール(ただし人による)」に過ぎないのであり、そんなもので空など飛べはしない。いかなる真理にアプローチするときも、地に足をつけているという現実感覚が必要である。

 

 では、その現実感覚を維持するためにはどうしたらよいのだろうか。それは、何事に対しても、常に「疑いを差し挟む」ことである。「AはBである」と言われたら、「いや、AはBでないかもしれない」、「AがBである証拠は(どこに)あるのか」というように、ごまかさずに向き合っていくことである。そして、いわゆるマインド・コントロールに関しては、たとえセミナー関係者にその意図がなくとも、その場の環境が結果的にそのような効果を生んでしまう可能性があることを知っておくとよい。また、マインド・コントロールを回避するためには、そのセミナーに参加する前の自分の価値観・判断基準・哲学を認識した上で、それが変化しているかどうかを絶えずモニターすることである。もし何らかの変化の兆しが見えたら、その変化をもたらした原因を分析して、望ましい変化であるか否かをできればリアルタイムで検証すべきだろう。それが困難であれば、一旦その検証は保留し、後で冷静な頭で変化前と変化後を比較してみるとよい。その場合は、入会するかどうかなどの重大な決断はその場で下さないことだ。

 

 繰り返しになるが、私はスピリチュアルを勧めもしないし、かといって悪だと断言することもない。各々の好きにすればいい。スピリチュアルがどのようなメリットをどれだけ持ちうるかは人によりけりだからだ。ただし、現実感覚に基づく論理的・批判的思考は常に携えていなくてはならない、というのが私の最大の主張である。もちろん、個人で対応できるレベルを超えた問題が生じた場合は、家族や信頼できる友人、消費者センターなどの機関に即座に相談することである。スピリチュアルがこれだけ人口に膾炙する今日だからこそ、被害に遭うことのないよう誰もが警戒せねばならないという考えから、思い立って筆をとった次第である。

拾うよりもむしろ、捨てる

以前、とあるミュージシャンに言われた言葉がふと思い出される。

 

「お前がどんなスタイルのプレイヤーなのかはわからないけど、新しい要素を取り入れるよりも、自分のスタイルを一貫させるほうが成功しやすいんだよ。」

 

その時は一演奏者として胸に刻んだその言葉が、今は、教師としての自分にも向けられているのがわかる。つまり、フォーカスすること:不要なものを捨象することが重要だと実感しているのだ。

 

教師の数だけ、教授法、教育哲学、授業スタイルがあると言っても過言ではない。もちろん私には私なりのスタイルがあるのであって、それが自らのアイデンティティにもなっている。ところが昔は、自分に足らないものばかりが目の前をちらついて、あれもこれも要素として取り入れなくてはと、常に焦っていた。一丁前にトレンドなんかも読もうとしたり、同業者の技術を盗もうとしたり、とかく躍起になっていた。思えば当時は、誰にも負けたくない、という想いが非常に強かったが、それは、他の教師ができることなら自分もできるようにならなくてはという劣等感からくる悲鳴の如き掛け声だったのだ。

 

それが今では、真逆の境地に達しつつある。すなわち、他人が既にできている・実践していることを、今さら私がやるまでもない、という開き直りにも似た態度である。もちろん、教師として、誰にとっても必要不可欠な要素というのはある。だが、そういった要素は限られているし、何より、コピーは所詮コピーに過ぎないのであり、オリジナルを超えることなどありえないのである。願わくは、過去の自分に問いたい。勝ち目のない勝負を一方的に挑み、当然のように敗北を喫し、自信を喪失していくことに、一体いかほどの意味があるのか、と。

 

経営に関して、このような名言がある。

 

”戦略とは何をやらないかを決めることである”

(マイケル・ポーター 米ハーバード大学教授)

 

至極もっともである。それこそが冒頭に述べた「フォーカス」の意味するところである。私はフリーランスとして、競合のやっていることはやらない。その代わり、自らのスタイルを掘り下げ、さらに磨きをかけていくのだ。語弊を承知の上で言うが、だから今では、同業者がどのような仕事をしているかについて、ほとんど興味がない。少なくとも、嫉妬混じりの羨望という枷からはすっかり解き放たれている。断言するが、本当に自分のスタイルに向き合おうという真摯かつ謙虚な気持ちがあるのなら、他人の真似などにかまけている暇は皆無である(ただし、研修等の情報交換の機会は必要だ。他人の意見を聞かなくてよいとまでは言わない)。他人の要素は、あくまで「参考」にするものであって、それに自分の軸が支配されるようでは本末転倒である。

 

時折教え子に言うのだが、入試が選抜試験である以上、周りの受験生と同じことをやっていたのでは合格できるはずがない。受験生でなくとも同じだ。ビジネスとして成果を上げたいのなら、一般の同業者と同じことをやっていては、競争に勝つことはかなわない。むしろ、競合のやっていないことを自らの武器として顧客にアプローチするのでなければ、成功を収めることはおろか、生き残ることさえままならないだろう。

 

だから今日も、自分のスタイルをさらに深めるために思索の旅に出る。そこには誰もいない。あくまで私の一人旅である。

 

「ありがとう」と、リスペクトを込めて

 コンビニやスーパー、飲食店などにおいて、客が店員に「ありがとう」や「ごちそうさま」を言うのは、正しいことなのだろうか。それとも、間違っているのだろうか。日本人としての統一的な正解はないだろうが、どちらかというと、あまりそういうことを言うのは憚られる、と考える向きが多い印象だ。

 だが、それでいいのだろうか。客と店員は、サービスと対価を交換するだけの冷たい関係なのだろうか。

 

 昨晩、仕事帰りに行きつけの定食屋で食事したときのこと。いつものメニューを注文し、相変わらずの美味に舌鼓を打つ。だしのよく効いた味噌汁を飲み干したところでさすがに喉が渇き、手を伸ばしかけたところで、お茶がないことに気づく。本来は料理よりも先にテーブルに置かれるのだが、店員もたまに忘れてしまうことがあるようだ。

 

 そばにいた店員にお茶を持ってきてくれるよう頼むと、忘れてしまった落ち度から、大急ぎで申し訳なさそうに出してくれた。そのとき私は、「ありがとうございます」と礼を言った。そんなこと、礼を言うに値することではないと思われるかもしれないが、それでも言わずにはいられないのである。その理由を改めて考えてみた。

 

 私が「ありがとう」と言うとき、単にサービス(Service:本来の業務)に対して言っているのではない。そのサービスを生み出す過程において、店員から客への「リスペクト」が感じられたときに、その気持ちに対して言っているのである。

 

 先の場合でいえば、私が文句を言ったわけでもないのに、店員は本心から申し訳なさそうであった。それはとりもなおさず、私へのリスペクトがあったことを意味する。だから私の方も、そんな真心をもった店員に対するリスペクトを表明するために、直接言葉にして伝えているのだ。

 

 逆に言えば、スーパーであれ定食屋であれ、店員が機械のようにサービスをこなすだけならば、客としては文句はないがお礼を言うこともないだろう。こちらも機械のように、対価として要求された金額を支払うだけのことである。それはそれでよいかもしれない。

 

 だが、どのような業種であれ、これだけ多くの店がひしめき合って競争している状況でマニュアル化された接客しかできない店員というのは少ないし、いても淘汰される。チェーン店だろうがフランチャイズ店であろうが、アルバイトを含む多くの店員は、客に快適に買い物をしてもらうための努力を惜しまないし、そういった部分にやりがいを感じてもいるのだろう。実際、日本を訪れる外国人はそのような接客サービスを高く評価しているという。もしも日本にチップの習慣があったならば、きっと観光客の多くがその本質(サービスの質に応じて、客が自発的に渡す)に基づいて、気前よくはずんでくれるのではないだろうか。

 もちろん日本にはそのような習慣はない。ならばせめて、言葉のチップをはずむつもりで、感謝の気持ちを直接伝えたいと思うのは人間として自然なことではないだろうか。相手は自動販売機ではなく、生身の人間なのだから。

 だから私としては、自分の「ありがとう」や「ごちそうさま」が殊更に特別視されるのは本意ではない。むしろそれが当たり前の世の中になってくれたらどんなに良いことかとつくづく思う。「言葉のチップをはずむ」などという独自の言い方に、面映さを感じずに済むほどに。

 

 そんなことを考えながら口にしたお茶は、もう温かいものに変わっていた。もうそんな季節か、などと今更のごとく秋の深まりを感じながら、思わずその温かさを人の心のぬくもりと重ね合わせていた。

地球の反対側にひとっ飛び

夜、思い立って、飲食店を求めて近所を散策した。改めて、いろんな店があるのね。ジャズ喫茶(ライブ真っ最中)とか、洒落たイタリアン・レストランとか、昔ながらのお好み焼き屋とか…。そんな中、実は前々から気になっていたメキシカンレストランに入店。30人弱くらいのキャパシティだが、客は私しかおらず、店主のお兄さんと二人きり。

メキシコ料理が初めてであることとめっちゃ腹減ってること(笑)を告げて、店主おすすめのタコスセットを注文。これがまた、とってもおいしくて…(; ;)

すっかり気を良くして、ついついメキシコのビールを注文。メニューに並んでいたのはSol, Corona, Tecateの3種で、この順に味が濃くなっているという。私は酒に関してのみ、濃い味が好きなので、Tecateを注文した。すると、瓶の飲み口にライムが添えてあるだけでなく、塩が塗ってある。テキーラのように飲むということなんだけど、これがまたクセになる。

メキシコ料理もこのレストランも、すっかり気に入ってしまった。それ以上に、ものすごくわくわくしている。だって、メニューを見たら、十中八九は初めて見る名前の料理が写真付きで並んでいるわけで、そんな状況は普通のレストランじゃありえない。こういう気持ちを味わうのは中学生の頃、初めて英語を勉強したとき以来だ。大真面目に、ですよ。実際、スペイン語から勉強したいなんて考えてしまうくらいだから。

狭い狭いと思っていた地元の界隈の片隅に、地球の反対側につながるドアを見つけたような、秋の夜長であった。

Roughであること

 先日、同僚の数学講師と談義をしていて、互いに最も共感したことがある。それは、「Roughであることの重要さ」。一見逆説的だが、教育の現場においてroughであるとは、どういうことなのだろうか。

 

 まず、roughは「荒い」という意味をもつが、私の授業中の口調はどちらかというと荒い方である。もちろん、人格を否定する言葉など決して言わないし、むやみに怒るわけでもない。ただ、生徒が間違っていたら「違う」とはっきり言うし、「それ、さっきやったばっかだろ」と言うこともかなりある。そのときの言い方が荒いのである。というより、オブラートに包むことをしない。

 この頃の教師は特に、このような荒さを忌避し、能う限り丁寧な口調で授業をする傾向にあるようだ。おそらく、学校でも塾・予備校でもそう大差ないのではないだろうか。そのような先生からすれば、私などは無神経で乱暴な人間に見えるかもしれない。

 だが、丁寧な物言いは、時として必要以上の距離を作り出してしまう。そして、教師と生徒の間の距離があまりに遠いと、教師の言うことが正確に伝わりにくくなる。あるいは、たとえ意味はわかっても、教師が意図した緊張感や厳しさまでは伝わらないことも少なくない。それでは本末転倒なので、生徒の人格を最大限尊重した上で、あえて荒っぽい口調で教えているのである。

 

 また、roughには「粗い」という意味もあるが、これは完璧主義に陥りがちな自分を制御してくれる、特に重要な観点である。通常、教師は授業を事前にきちんと組み立て、時間の使いかたなどを計画した上で、本番に臨む。もちろんそれはそれで望ましいことなのだが、計画があまりにもきめ細かい場合、その分融通が利きづらくなる嫌いがある。それならば、軸がぶれてしまうことのないように大まかな方向性だけを決めて、あとはその時その時の教室の状況を読み取って授業の進め方を調整すればよい、というのが私の考え方である。

 別な観点で言うと、英作文や和訳問題などの模範解答もある程度「粗い」方が却って生徒のためになる。教師が実際の試験時間を大幅に超えて(というか、無視して)書いた答案は確かに完璧だが、それゆえに生徒が試験本番でそのように解答することは非現実的である。もちろん、完璧な模範解答を見せることは大切だが、皮肉なことにそれだけでは「模範」にはなっても「参考」にはならないことが多い。だからこそ、模範解答と併せて、それをギリギリまで荒くした見本も示すことで、本番での最善とは何かをわかってもらうことが重要だと私は考えている。

 

 これらのことに気づくのにかなりの年月を要したが、これこそ自分のブレークスルーのポイントだと思う。それに、このことは教育だけでなく、他の事柄にも多かれ少なかれ当てはまるだろう。言い古された表現だが、人にものを教えることは、本当に勉強になる。